昭和50年08月10日 月次祭
信心を頂くというが、油断をしてはならぬ。油断をすると信心が進まない。ようやく有難くなりかかっておるものが、その有難いものが、また冷えてしまう。信心がいわゆる、堂々巡りになる。何かこうひと切りつきますと、確かにこう油断が出来るようですね。隙が出来ます。例えばお月次祭をこうして奉仕させて頂いておる、お祭りを拝んでおる間は、皆んながやっぱり、引き締まっておりますけれども。
もう終えて先生方が裏へ下がると途端に心が緩む。そして月次祭から月次祭までの間の、大事な行事の事が、マイクで流されておりますけれども、誰が聞きよるのやら、聞きよらんのやら、もう皆んなそこで、がやがや、がやがや、がやがやお話が始まる。矢張りあの、姿が見えないと云う事は、そう云う事かも知れませんね。声だけですから。ごまかしが利く訳です。それが自分達だけじゃなくてから、あちらこちらでがや々言い出すから、もうあのマイクで流しておる時には。
何をいうておられるやら聞こうと思うておる者まで、聞かれないと言う様な事になる。説教台の前に、こうして誰かが立ってお話をすると、またこうしゃんとする。私はそう云う事だと思うんです、油断という事は。ですからね折角何をか頂いて帰らなければならない、それはどう言う事の中から頂くやら分からんので御座いますから、それこそ子供の泣き声の中からでも、神様がものを言うて下さると言うのですから。それを頂損ねてしまう事になります。どうでも一つ今の合楽のゴヒレイを。
皆さんの家庭のゴヒレイにもして行かなきゃいけないです。正教君がお話を致しておりましたが、まぁだ三ヶ月にならないでしょう。合楽を離れて御本部で。まぁ専心御道の教師としての勉強を、修行を一生懸命させて頂いておる。そしてまっ帰らせて頂いてから、驚く事は、もう信者さんの、新しい顔が増えておる事に驚くと言っております。これが今の、合楽にずうっとおる者は分からないです。そう気が付かない。
そら確かにそうです。もう月次祭から月次祭までの間にでも、又新たな顔がいみっておる、と言うのが、現在の合楽のゴヒレイの姿だとこう思うのですけれども。そういう姿だけではなくて、何処からそういうヒレイの元が輝きだしておるのかという、そこん所を、知らせて頂く事によって、銘々の心の中にも、家庭のなかにも、そうしたヒレイを受けて行く事が出来るのです。
先月からあの様」に熱烈な夏期信行が行われて、一月間もう本当にこのお広前が割れんばかりの、御祈念修行と申しますか。信行が繰り返されました。もう皆さんが、ああいう姿が、隙のない姿じゃろうと思うた。第一ねその一時の御祈念に合せてでしたけれども、一時の御祈念に遅れて来るという人が、先ず無かったですからね。一時の御祈念までにはもう、ここいっぱいに集まる人達が。
皆んな一通りお届けが済んでおると云う程しですから。私はあの此れは、誰がしゃんとせろと言うた訳じゃないのですけれども、自ずからそういう一つの心意気と言う様なものが、お広前いっぱいに漲って、一月間まぁ無事に終わらせて頂ました。所がです。言わばやれやれと言う気が、少し見えた様な感じが致します。あの時に久富総代さんが言っておられました様に。この言うならば信心修行この勢いを。
ここからの物としてと言っております。今日からのものとして、この勢いを十六日の、夏の御大祭、祈願祭に持ち込んでいけれる様なおかげを頂きたいと言う風に言っておられます。十六日の御大祭というのは、皆さんもご承知でございましょうけれども、これは、九州だけのお祭りで御座います。小倉の初代が。御本部の御造営を思い立たれる事になりました。自分の出社一般にその事を。
いわゆる檄を飛ばされて、そして自らは木曾山中に入られて、木材の伐採に当たられました。教会にいわゆる、出社の教会にはもう、矢継ぎ早に、○をくれ○をくれという電報が来たと言う事で御座います。皆さんもそうだったでしょうけれども、特に私共の師匠である所の、三井教会初代教会長などは、もうそれこそ命掛けであったらしい。その為に。言わば自分で自分の命を絶とうと迄思い立たれた位に打ち込まれたんです。
そういう例えば、熱烈な願いというものが、命がけでの祈りというものが、桂先生が墨黒々と奉書紙一枚に書いて、金光様にお供えなさっておられる、その書いたものが、御本部に残っております。御大祭の時などにはあのこう、遺品展なんかというのがありますね。あそこへ何時も出してありますよ。その時の桂先生の心境を、金光様にお取次ぎを頂いて願うておられます。どうぞどうぞ九州中の氏子が。商売をさせて貰う者、事業をさせて貰う者は、そういう者の上に、特別のゴヒレイを頂きたい。
百姓の上には特別の五穀豊穣の祈願を込められ、その事を願われた。ですからもうそれこそ、命がけでの祈りであり、命がけでの神様への取り組みであった。その祈願のお祭りが、七月の十今は十日になっとりますけれども、十三日に行われて現在でも、小倉では、それが七月の十日。手続きを頂いておる教会では、そこから段々とお祭りが、夏のいわゆる祈願祭。最近は大変内容が変わったようですね。
私先日も親教会に参りまして、お祝詞を聞かせて頂よりましたら、教団設立記念の式を各教会でと言う事が、それに併せて祈願祭と言う事になっておりますようです。私はそうではないと思う。教団設立の記念式は、私共も皆んな御本部に参拝して、御本部でそのお礼のお届けはあるのですから。これは各教会のものではないと思うです。これが春の大祭、秋の大祭というなら、いざ知らすですけれども。ですからこれはまぁ私の信心ですけれども、私はどこまでも桂先生のご信心をです。
この八月の御大祭には、生かさなければならない。言うならば昔の方達は、その八月の、又は七月の夏の祈願大祭に、願いの全てをかけられたと話が残っております。七月の間にあの様な、一生懸命の、汗水たらしての信行が行われた。その信行の勢いをもって。八月の十六日の祈願祭にあわせて頂きたい。お互いの、様々な願いを持たない者は無い。その願いにかけてです、私は八月の十六日の御大祭は頂かなければならない。だからここの場合は、設立記念式に合わせてでもなからなければ。
これは何所までも、桂先生のご精神に基づいて。あなたの信心を受けさせて頂いておるという印が、合楽の祈願祭でなからなければならないと、私は、思おうております。だから祈願と言うのですから、願いと言うのですから。どういう願いでも良いのです。お金に困っている人は、もういよいよ、お金に困らんで済む程しの。病気をしておる人ならば、この大祭を境に元気にならせて頂ます程しの。
人間関係で苦しんでおるなら。それありとあらゆるお互いの願い事と言うものを、ここに一括して結集して、そしてあの夏の祈願大祭に、持ち込んで行かなきゃならんと言う風に、私は思うんです。ですからね、ほんなら七月の三十一日まで、あげな修行が出来てから、その間、空間が出来る。その間は気が抜けておる。そして御大祭と言ってもね。私は、祈願祭が祈願祭にならないと思うんです。
勿論その祈願祭というてもです。皆さんも日々御祈念の中に、真摯をなさっておられる事で御座いましょうが、合楽では特別に、五つの願いと言う事を打ち出して、合楽示現活動に参画するという運動と共に、この祈りの言うならば、信行が続けられておる訳です。御神前に向かった限り、柏手して御神前に向こうたが限り。例えばちょっと神様に、何かをお礼を申し上げる時であっても、この五つの願いだけは、必ず繰り返し繰り返しお願いしなければいけないよと言って、私もそれを実行しておる。
休ませて頂く時に、枕の上に手をついて、只今から休ませて頂くという、その簡単な祈りの中にでも、その五つの祈りだけは必ずする。如何にもね、欲々しいというか、欲張りの様にありますけれども、こういう願いは、そのまま、神様の願いなのですから、素晴らしいのです。一つどうぞ体の丈夫をと言うので御座います。二つ。家庭に不和のなきがもとと仰せられますから、どうぞ家庭円満のおかげ。
三ついよいよ子孫繁盛、家繁盛の土台元にならせて頂くほどしの信心を、いわゆる末繁盛のおかげの頂けれる信心を、またおかげを願わして貰う。そういう祈りを持たせて頂いて、どうぞ貴方のお役に立つ信心。貴方にお喜び頂ける程しの信心に、お役に使うて御用に使うて頂きたい。その御用の内容が分かりたいというのが、四つ目の信心。大体はこの四つなんです。五つの願いというけれども、実はこの四つなんです。
最後に神願成就の大みかげと言う事は、神様の願いが、この四つによって成就するのです。氏子信心して、おかげを受けてくれよと言う事は、どうぞ健康であってくれよ、家庭が円満であってくれよ。お前の代よりも子供の代、孫の代にまでも伝わる程しの信心の徳を残して居ってくれよ。そして、私の手にも足にもなってくれよと言うのが、神の願いだと私は思う。そこでです、ほんならその健康のおかげをもう、それこそ脂汗を流して願うと言う事でも、唯私が楽をしたいからというだけでは無いのです。
お役に立ちたい一念が、どうぞ健康にならせて下さいと言うのですから。家庭円満であるというのもそうです。お父さんがお参りをする。お母さんがそげん参らんでんち言うならもう、それで信心が崩れる。家庭が円満に勢を揃えて信心が出来るというおかげを願わして貰う。誰も願わんものはありますまい。子の代よりも、言うならば孫の代と、いよいよ繁盛のおかげを頂かせて貰う。そういうおかげもです。私だけではない。
代々がどうぞ神様、貴方のお役に立たせて頂きたい事の為に、大坪一家が大繁盛のおかげを頂かなければならない。桜井一家が大繁盛のおかげを頂かなければならないと言う事。ですから下作な願いでも。困った願いでも神様はそげん無理を言うなと仰る願いじゃ無いのです。もう神様が言うならば痒いところに手の届く程しの願いであると、私は思います。天地が真ならまた私共も真を持って、神様へ向かわなければならない。
真とは何か。私は、今四つの願いと言う様な願いが、本当に出来る時に私共は真からそれが打ち出されて来るものであると思います。神様はだまくらかそうと。年は本当金ばどうぞ儲けさせて下さい。どうぞ健康にならせて下さい。そして健康になったら最後はもう夫婦喧嘩をする。金も頂いた途端に、贅沢をすると云う事ではね。神様は決して騙されるごとして騙されはしなさらんです。おかげは下さるです。下さるけれども本当のおかげにならんです。真と真が通わなければ。
そこでです例えて申しますと、今ただマイクだけで流されると、大事な話があっておっても、皆んなが一つもあの聞きよらん。がやがやがやがやと、三々五々みな話ばっかりして雑音だけ。神様はね疑えば限りがない、姿もなからなければ、声も無いのですから。ですから神様が見て御座らんと、例えば。人の前ではしゃんとするけれども、見て御座らなければ、どんな事でもやってのけれれると言う様なものがです。
私共の心の中にやっぱあるんです。あるのが例えばあの、がやがや、がやがやにも、言わばなって来るのじゃないでしょうかね。先生はここに教衣を付けてここへ立たせて頂くと、皆んながしゃんとする。おかげというものは、どこにあるやら分からん。どういう端からでも。ほんなら、何をか頂いて帰らなければ止まんという、その心を作っていかなければいけません。そこでほんなら、信心の言わばその過程と申しましょうか。どういう信心が繰り返されていけば良いのか。
成程それでは信心の油断が出来ないはずだと言う事を、一言聞いて頂こうと思います。信心が段々分かって参ります。教祖様の御晩年のころの御教えには、もうこのお試しという事をもう、来る人毎に伝えておられます。用心しなされや信心に身が入って来ると、神様のお試しがありますぞと仰る。用心しなされや信心に身が入って来る。あぁ有難いあぁ合楽ちゃ有難いとこばいと言うて、一生懸命お参りしよる。所がこれしこ一生懸命参りよるとに、こんな事が起こってと言った様な事もある訳です。
そういう時にです。私共の受ける姿勢というものが、常日頃出来ておる。同時に神様のお心が、段々分かっていかんと落第を致します。丁度私はあの洗濯をする様なものだと思います研き改まれと。研きもする改まりもする。いうなら一生懸命ごしごし押しこくって、いうならば、綺麗に洗濯をする。ゆすぎもするここまではねもう大体、誰でも出来るのです。信心ちゃやっぱ改まる事が大事だなと。
やっぱ本気で研かなきゃいけないな。まぁ今朝から安東さんのお導きで参って来る、あるご信者さんが、「先生、私はもう腹が立って、腹が立ってたまらん」ち言う人がありました。「そらあんた、腹が立つちは有難いじゃんの。そるきんいっちょ金光様、金光様で、ありがぁといっちょ腹を立てなさい」ち。それは人間ですから、矢張り腹も立ちゃ。色んな不平不足も出ろうとする事もありますけれども。
それこそ金光様、金光様を唱えながらの不平であり、不足であり腹立ちであると云う事に、有難いものがあるのです。決して腹立ちを言わば宣伝する訳じゃないですけれどもね。そこが、私共の信心の過程のものだから。その道すがらのものですから、色んな所も通りましょうけれども。けれども同じとこを何時も繰り返しておってはいけないというのです。洗濯を致します、竿に掛けると綺麗に乾きます。所がちゃんとうっかりしといてから、乾いとるとを忘れといてから。
あくる日どん又取り込む事になると、またゴミがしとると言う様な事にもなる道理です。参ったから良い話を聞いたから良い。成程信心ちゃ研くものばいの、改まるものばいのと分かっただけではいけない。それが持って帰られてです。言うなら洗濯ですから、それを、例えば一日なら一日乾かす、乾いたならばそれを取り込まなければいけません。そしてそこにアイロンの一つも掛けさせて頂いて、箪笥に仕舞うなり、又それを使うなりと云う事にならなければ、いうなら何時も気持ちの良い。
さばさばとしたおかげにはなって来ない様な道理です。だから日々の改まりと云う事も。本心の玉を研くと云う事もです。話を聞いて成程と合点が行けば、そこから改まる事の道。又はこうして研くのだと分からせて頂くのです。けどももう研いたから、改まったから、それで良いというのではない。そこに油断があってはならないと言うのです。取り込むとを忘れちゃならんと言うのです。
今日も一日、御教えに取り組ませて頂いて、もう本当に朝の御祈念なら、朝の御祈念に、清々しい思いで参らせて頂いて、本当に今日も昼忙しゅう、お使い回しを頂いて忙しい事で御座いましたけれども。一日無事に御用を済まさせて頂いて、只今から休ませて頂くと言う時の有難さというものはまた格別。忙しければ忙しい程、難しい問題があればある程、そこのところの有難さというものは、また深い信心を頂かなければ分からん味わいの、いうならば就寝、休ませて頂くと云う事になるのでしょう。
そういう心で休ませて頂くですから、また朝の目覚ましのおかげも有難い事になって来るのです。それを。朝のお参りはしとるけれども、ずうっと忘れてしもうとる。そして洗濯しておった事を忘れてから、夜中にどん思い出したっちゃこれじゃいかん。その日にやっぱ、取り込ませて頂いて、そしてそれをアイロンを掛ける。アイロンを掛ける時には、もうじかには掛けない。
それこそもう一遍霧吹きでぷうっと水を吹いて。ぐしゃっとなる様な所もありますけれども、そこへあの電気のしゃんと掛けますから、ピーンとなるのです。私は洗濯と云う事も、決してその改まったり、研いたりすると云う事も、見やすい事はないですけれども、しかし、それが信心なのですから。そしてそれを愈々自分のものにして行くという。それこそ。朝の御理解なら朝の御理解を頂いて有難かった。本当にだからどの位有難いだろうかというて、神様がちょっと突きなさると。
もう有難いのは一遍に無くなってしもうて、自分の我情我欲の為に苦しむ一日であると云う様な事ではいけない。そこん所を一つあこれで研かせて頂くんだ。これによって改まらせて頂くんだと云う事にならなければいけんのです。そこから今日も有難くおかげを頂いてと云う事になるのです。そこでほんなら有難い勿体ないというておる、その有難い、勿体ないがです。どれ程の有難いものになっておるか。
本当に有難いと言いよるが、本当に有難いとだろうかと、神様が突つきなさると、それがもろくも崩れてしまうという事では、いけないというのです。そこが言うならばお試しであります。言うならばアイロンを掛ける前に、ぱっとこの水を拭く様なもんですから、ぐしゃっとなる様な事がありますけれども。これはアイロンを熱を掛ける事の為の前提だと悟らせて頂いて、そこんところを、有難く頂いて行くと云う生き方です。そこにはしゃんとした、言わば洗濯物の出来上がりがある訳です。
これは一日だけの事じゃありません。一月の間にもあります。一年の間にもあります。だから、そういう一つの節々をです。大事にさせて貰うと云う事はです。如何に信心に油断があっては出来ないかと云う事が分かるのです。今日もそこの久保山さんが、今朝からお知らせを頂いておられるのに、菊の花を沢山頂いて帰っておる。もうしかも重いごと頂いて帰っておる。それを家に持って帰って、こう水をシャーっと逆水をかけておる所を頂かれたというのです。
今日は特別奉修委員のあれがありましたから、あのその事を御祈念の時にふっと思わせて頂いたら、先日から親教会に参拝させて頂いた。母の告別式のお礼の時でした。そしたらこっからあの沢山の菊の花をおことづけしとったから、菊の花とか色んな花をです。それをこんな壷にもうこちらから持って行ったままのを、ぽんと入れて霊神様の前にお供えしてあった。あら沢山花があれば良いというものじゃないですね。返って無い方が良い様な感じがしますね。花をただいきなりぽんと大きな壷に入れてあるだけ。
その情景を私は今朝頂くんです。はは久保山さんが頂いたのは、こう云う事であろうかと。そういう花菊の花といや喜び。何時までも持ち続けなければならない喜びと言う、まぁ合楽のシンボルの様に菊の花は言われます。ですから日々有難い御教えを頂いて、それこそ重たい程に持って帰っておるのだけれども、逆水まではしておるんだけれども、それを生けこなす術を、まぁだ知らない様な感じがするというて、今日は御理解頂いた事でした。矢張りお花にはお花の道がある。
これは例えば池坊なら池坊でするならば、言うならば芯があり添えがあり、対がある。それを言わば生花のお約束どおりに、盛り花なら盛り花の投げ入れなら投げ入れの約束通りに芯添え対の芯それに基づいて生けて行く所に、誰が見ても素晴らしいなぁと云う事になるのです。はぁ金光様の信心し御座るけん、やっぱ素晴らしいと。ところが沢山のお花を重い程に持って帰っとるけれども、それが、例えばそのまま。活ける術を知らないで、いうならば、壷の中に入れておるならばです。
返って綺麗な菊の花が綺麗なものにならない。返ってまぁ見苦しい様な事にまでになり兼ねない。お互い信心をさせて頂いて誰が見ても、やっぱ信心しござるけん違うと言われる人はです。そのいうならば生きあげ方を心得ておる人だと私は思います。その生きあげ方というものがです。道に基づいて、生き上げる稽古をするのですから。どういう例えば、腹の立つ様な問題でも、目の前が例えば真っ暗になる様な問題でも、さぁこれを如何に生け上げるかと云う事になります時にです。
もう普通では頂けない素晴らしい花が生けあがってくる事になるのです。その生け上げる術を、お互いが知らない。花だけは確かに頂いて帰るんだけれども、それを生け上げてこそ初めてそれが。自分もはぁ素晴らしいと思うでしょうし、人が見てもまた。素晴らしい花だなとそれこそ見とれる様な信心が育って来る訳で御座います。それにはどうしても。私共が信心のひとつ、油断をしてはなりません。油断をしないと云う事は何時もねもう張り切っておると云う事ではありません。
相撲取りが何時もほんなら、土俵上におる時の様なあぁ云う事というのなら、とても出来はしません。けれども土俵上に上がるまでの、言うならば稽古の過程というか何時も言わば。明日はどの手で投げてやろうかと言う様な心が、何時も心の中に動いておる。何時も研究を惜しまない。何時も修行を怠らない。それは茶飯事の中に出来る修行。それを最近、合楽では、心行というておるので御座います。
心でする修行ですから、お風呂へはいっとっても、ご飯を頂きながらでも、人とお話をしながらでも、この心行は出来るのです。と言う様に神様を身近に頂くと云う事によってです。例えば、そこに問題が起きて参りましても、その問題を見事に受け応える。又は活けこなす事の出来る働きがあるのです。そういう信心が繰り返されて行く時にです。言わば信心をすれば、一年一年有難うなって来るというおかげに成って来るのです。それは七月の、あの夏期信行の様な事は。
出来ないに致しましても、その精神をもって家業の行に又は心行に取り組ませて頂いて、言うなら十六日の御大祭を頂く事の為と云う事ではないですけれども。その十六日の大祭というその芯が言わば、大祈願と云う事になっておるならば、私共の願いの全てを、そこに掛けて言うならば、五つの願いに結集して。それを本当に神様に聞き届けて頂こうと言うお祭りが、夏の祈願祭ですから。
そういう意味合いで油断なく一つ取分け、大祭を頂かせて頂くまでは。お願いをするまでは。信心のいうならば油断をせんようにして、おかげを頂きたい、蒙りたいと思うので御座います。先程お話があっておりました、今度の秋の御本部参拝も、ここから百五十名申し込んで御座いました。所がとにかくその、合楽だけがあの退いてもらえば良いというのです。そのでなかったら。
他所にこう少しづつこう申し込みをへずらにゃいかん。でそういう申し込みをあの、清美さんが受けておりましたから、今度はまぁどう云う事になるか分かりませんけれども。新幹線で行く事になるかも知れません。それはおかげを頂けば、日帰りが出来るんでしょう新幹線は。日帰りが出来る事でもありますし。それは千円二千円は高くなりますけれども。それだけ、おかげが頂けれると云う様な思い方は出来ないもんでしょうかね、どうぞおかげを頂かれます様にお願い致します。
どうぞ。